大ラーフラ教誡経

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第一章

 このように私は聞いた ──
 あるとき、世尊は、サーヴァッティに近いジェータ林のアナータピンディカ僧院に住んでおられた。
 さて、世尊は、午前時に着衣され、鉢衣を保ち、サーヴァッティへ托鉢に入られた。尊者ラーフラもまた、午前時に着衣し、鉢衣を保ち、世尊の後に従って行った。
 ときに、世尊は顧みられ、尊者ラーフラに話しかけられた。
 「ラーフラよ、過去・未来・現在のいかなる色も、内にあるものであれ、外にあるものであれ、粗大なものであれ、微細なものであれ、劣ったものであれ、勝れたものであれ、あるいは遠くのものも近くのものも、すべて色は、〈 これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない 〉 と、このように如実に、正しく、慧によって見られるべきです」 と。
 「世尊よ、色のみでありましょうか。善逝よ、色のみでありましょうか」
 「ラーフラよ、色もです。ラーフラよ、受もです。ラーフラよ、想もです。ラーフラよ、もろもろの行もです。ラーフラよ、識もです」 と。
 さて、尊者ラーフラは 〈 世尊から面前で教誡を受けて、誰が今や村へ托鉢に入るであろうか 〉 と、そこから引き返した。そして、ある樹の根元で跏趺を組み、身体を真っ直ぐに保ち、念を全面に凝らして坐った。尊者サーリプッタは、尊者ラーフラがある樹の根元で跏趺を組み、身体を真っ直ぐに保ち、念を全面に凝らして坐っているのを見た。見て、尊者ラーフラに告げて言った。
 「ラーフラよ、入出息の念を修習しなさい。」

 

第二章

 さて、尊者ラーフラは夕方、独坐から立ち上がり、世尊がおられるところへ近づいて行った。行って、世尊を礼拝し、一方に坐った。一方に坐った尊者ラーフラは、世尊にこう申しあげた。
 「尊師よ、入出息の念をどのように修習し、どのように復習するならば、大きな果報があり、大きな功徳があるのでしょうか」
 「ラーフラよ、およそ内の、各自にある、堅い、粗い、執取されたものがあります。たとえば、髪・毛・爪・歯・皮、肉・筋・骨・骨髄・腎臓、心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺臓、腸・腸間膜・胃物・大便、あるいはまた、その他どのようなものであれ、内の、各自の、堅い、粗い、執取されたものです。ラーラよ、これが、内の地界と言われます。
 そしてまた、内の地界であるもの、および外の地界であるもの、これがすなわち地界です。それについて、『これは私のものではない』『これは私ではない』『これは私の我ではない』 とこのように、これが如実に、正しく、慧によって見られるべきです。このようにこれを如実に、正しく、慧によって見て、地界について厭い、地界について心を遠ざけます。

 

第三章

 つぎに、ラーフラよ、水界とは何か。内の水界と外の水界ということになります。
 それでは、ラーフラよ、何が内の水界であるのか。内の、各自にある、水、水と化すもの、執取されたものです。たとえば胆汁、痰、膿、血、汗、脂肪、涙、脂肪油、唾、鼻液、関節液、小便、あるいはまた、その他どのようなものであれ、内の、各自にある、水、水と化すもの、執取されたものです。ラーフラよ、これが内の水界と言われます。
 そしてまた、内の水界であるもの、および外の水界であるもの、これがすなわち水界です。それについて、『これは私のものではない』『これは私ではない』『これは私の我ではない』 とこのように、これが如実に、正しく、慧によって見られるべきです。このようにこれを如実に、正しく、慧によって見て、水界について厭い、水界について心を遠ざけます。

第四章

 つぎに、ラーフラよ、火界とは何か。内の火界と外の火界ということになります。
 それでは、ラーフラよ、何が内の火界であるのか。内の、各自にある、火、火と化すもの、執取されたものです。たとえばそれによって熱せられ、またそれによって老化され、またそれによって焼かれ、またそれによって食べられるもの・飲まれるもの・噛まれるもの・味わわれるものが正しく消化するもの、あるいはまた、その他どのようなものであれ、内の、各自にある、火、火と化すもの、執取されたものです。ラーフラよ、これが内の火界と言われます。
 そしてまた、内の火界であるもの、および外の火界であるもの、これがすなわち火界です。それについて、『これは私のものではない』『これは私ではない』『これは私の我ではない』 とこのように、これが如実に、正しく、慧によって見られるべきです。このようにこれを如実に、正しく、慧によって見て、火界について厭い、火界について心を遠ざけます。

 

第五章

 つぎに、ラーフラよ、風界とは何か。内の風界と外の風界ということになります。
 それでは、ラーフラよ、何が内の風界であるのか。内の、各自にある、風、風と化すもの、執取されたものです。たとえば、上向きの風、下向きの風、腹の外の風、腹のうちの風、四肢に従う風、出息、入息など、あるいはまた、その他どのようなものであれ、内の、各自にある、風、風と化すもの、執取されたものです。ラーフラよ、これが内の風界と言われます。
 そしてまた、内の風界であるもの、および外の風界であるもの、これがすなわち風界です。それについて、『これは私のものではない』『これは私ではない』『これは私の我ではない』 とこのように、これが如実に、正しく、慧によって見られるべきです。このようにこれを如実に、正しく、慧によって見て、風界について厭い、風界について心を遠ざけます。

 

第六章

 つぎに、ラーフラよ、空界とは何か。内の空界と外の空界ということになります。
 それでは、ラーフラよ、何が内の空界であるのか。内の、各自にある、空、空と化すもの、執取されたものです。たとえば、耳孔、鼻孔、口腔、また、それによって食べられるもの・噛まれるもの・味わわれるものを飲み込む、また、そこに食べられるもの・噛まれるもの・味わわれるものがとどまる、また、それによって食べられるもの・噛まれるもの・味わわれるものが下部に出る、あるいはまた、他のどのようなものであれ、内の、各自にある、空、空と化すもの、虚空、虚空と化すもの、血肉によって触れられないもの、執取されたものです。ラーフラよ、これが内の空界と言われます。
 そしてまた、内の空界であるもの、および外の風界であるもの、これがすなわち空界です。それについて、『これは私のものではない』『これは私ではない』『これは私の我ではない』 とこのように、これが如実に、正しく、慧によって見られるべきです。このようにこれを如実に、正しく、慧によって見て、空界について厭い、空界について心を遠ざけます。

 

第七章

 ラーフラよ、地のように修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、地のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。たとえば、ラーフラよ、地に清浄なものを投棄しても、不浄なものを投棄しても、糞そのものを投棄しても、尿そのものを投棄しても、唾そのものを投棄しても、膿そのものを投棄しても、血そのものを投棄しても、地はそれによって憂えたり、恥じたり、嫌悪したりすることがありません。ちょうどそのように、ラーフラよ、そなたも地のように修習しなさい。地のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。
 ラーフラよ、水のように修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、水のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。たとえば、ラーフラよ、水において清浄なものを洗っても、不浄なものを洗っても、糞そのものを洗っても、尿そのものを洗っても、唾そのものを洗っても、膿そのものを洗っても、血そのものを洗っても、水はそれによって憂えたり、恥じたり、嫌悪したりすることがありません。ちょうどそのように、ラーフラよ、そなたも水のように修習しなさい。水のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。
 ラーフラよ、火のように修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、火のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。たとえば、ラーフラよ、火は清浄なものを焼いても、不浄なものを焼いても、糞そのものを焼いても、尿そのものを焼いても、唾そのものを焼いても、膿そのものを焼いても、血そのものを焼いても、火はそれによって憂えたり、恥じたり、嫌悪したりすることがありません。ちょうどそのように、ラーフラよ、そなたも火のように修習しなさい。火のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。
 ラーフラよ、風のように修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、風のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。たとえば、ラーフラよ、風が清浄なものに吹きつけても、不浄なもの吹きつけても、糞そのものに吹きつけても、尿そのものに吹きつけても、唾そのものに吹きつけても、膿そのものに吹きつけても、血そのものに吹きつけても、風はそれによって憂えたり、恥じたり、嫌悪したりすることがありません。ちょうどそのように、ラーフラよ、そなたも風のように修習しなさい。風のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。
 ラーフラよ、空のように修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、空のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。たとえば、ラーフラよ、空はどこにも定着することがありません。ちょうどそのように、ラーフラよ、そなたも空のように修習しなさい。空のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。

 

第八章

 ラーフラよ、慈しみを修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、慈しみを修習するそなたには、怒りというものが捨てられるであろうからです。
 ラーフラよ、憐れみを修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、憐れみを修習するそなたには、害心というものが捨てられるであろうからです。
 ラーフラよ、喜びを修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、喜びを修習するそなたには、不快というものが捨てられるであろうからです。
 ラーフラよ、平静を修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、平静を修習するそなたには、対立というものが捨てられるであろうからです。
 ラーフラよ、不浄を修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、不浄を修習するそなたには、貪りというものが捨てられるであろうからです。
 ラーフラよ、無常想を修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、無常想を修習するそなたには、我の慢というものが捨てられるであろうからです。

 

第九章

ラーフラよ、出入息の念を修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、出入息の念を修習し、復習するならば、そなたに大きな果報があり、大きな功徳があるからです。
 では、ラーフラよ、出入息の念をどのように修習し、どのように復習するならば、大きな果報があり、大きな功徳があるのか。ラーフラよ、ここに比丘たちは、森に行くか、樹下に行くか、空屋に行って、跏趺を組み、身を真っ直ぐに保ち、全面に念を凝らして坐ります。
 かれは、念をそなえて出息し、念をそなえて入息します。
 長く出息するときは 〈 私は長く出息する 〉 と知り、あるいは、長く入息するときは 〈 私は長く入息する 〉 と知ります。また、短く出息するときは 〈 私は短く出息する 〉 と知り、あるいは、短く入息するときは 〈 私は短く入息する 〉 と知ります。
 〈 私は全身を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は全身を感知して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は身行を静めつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は身行を静めつつ入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は喜びを感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は喜びを感知して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は楽を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は楽を感知して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は心行を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心行を感知して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は心行を静めつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心行を静めつつ入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は心を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を感知して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は心を満たしつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を満たしつつ入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は心を統一しつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を統一しつつ入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は心を解放させつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を解放させつつ入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は無常を随観して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は無常を随観して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は離貪を随観して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は離貪を随観して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は寂滅を随観して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は寂滅を随観して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は破棄を随観して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は破棄を随観して入息しよう 〉 と学びます。
 ラーフラよ、出入息の念をこのように修習し、このように復習するならば、大きな果報があり、大きな功徳があります。
 ラーフラよ、出入息の念がこのように修習され、このように復習される場合、それらの最後の出息も確かに知られるとおりに消滅します。知られないままにではありません」 と。
 このように世尊は言われた。
 尊者ラーフラは喜び、世尊が説かれたことに歓喜した、と。

大サクルダーイ経

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第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、ラージャグリハの、カランダカニヴァーパに、止まっておられた。

その地には、著名な遊行者が、多く集っていた。

そして、仏陀が、サクルダーイを訪れると、彼らの集団は、大声を出して、論争していた。

しかし、仏陀の到来に気づくと、彼らは言った。

「諸賢よ、静かにしろ、諸賢よ、静かにしろ。沙門ゴータマが来られた、彼は論争を好まない。」

サクルダーイは、仏陀に恭しく挨拶すると、仏陀に席を譲って、自らは低い場所に座った。

そして、仏陀に対して、このように語り掛けた。

「仏陀よ、先日、婆羅門が、一堂に会した時、次のような話題が、彼らの中に起こったのです。」

『アンガの国、マガタの国は、実に幸せだ。というのも、夏になると、ラージャガハには、多くの婆羅門が訪れて、多くの法を説くからだ。

第一には、サンジャヤ・べーラッティプッタが、

第二に、ニガンタ・ナータプッタが訪れようし、

第三に、アジタ・ケーサカンバラが訪れようし、

第四に、バクダ・カッチャヤーナが訪れようし、

第五に、プラーナ・カッサパが訪れるだろうし、

第六に、マッカリ・ゴーサラが訪れるだろうし、

第七に、ゴータマ・シッダルダが訪れるだろう。』

「そのとき、ある婆羅門が、こう言いました。」

『本当だろうか、彼らを、同列に扱えるものか。』

『彼らの中で、ゴータマが飛び抜けている。確かに他の師も、多くの弟子を持っているが、彼らの弟子は、彼の弟子と、全く異なっている。』

『例えば、ゴータマが、法を説いていると、彼の弟子は、微動だにせず、咳ひとつしない。一方、他の師の弟子は、師の法を軽んじている。』

『例えば、ゴータマの、法に従えないとき、彼の弟子は、仏陀を攻めず、我が身を責める。一方、他の師の弟子は、師の方を責めてしまう。』

「仏陀よ、このように、他の師とは異なり、仏陀は、自らの弟子達に、崇敬されています。それゆえ、周りの婆羅門に、尊敬されるのです。」

第二章

「サクルダーイよ、弟子に尊敬される条件、弟子が私を尊敬する理由に、五つの法がある。それでは、この五つの法とは、如何なるものか。」

「第一に、最上の戒を、具えることである。師匠が戒を備えると、弟子も戒を供え始める。これによって、仏陀は、弟子から尊敬を受ける。」

「第二に、最上の定を、具えることである。師匠が定を備えると、弟子も定を供え始める。これによって、仏陀は、弟子から尊敬を受ける。」

「第三に、最上の慧を、具えることである。師匠が慧を備えると、弟子も慧を供え始める。これによって、仏陀は、弟子から尊敬を受ける。」

「第四に、最上の諦を、具えることである。師匠が諦を備えると、弟子も諦を供え始める。これによって、仏陀は、弟子から尊敬を受ける。」

「第五に、最上の品を、具えることである。師匠が品を備えると、弟子も品を供え始める。これによって、仏陀は、弟子から尊敬を受ける。」

第三章

「サクルダーイよ、それでは、最上の道品。苦悩の滅尽に至る道、道諦である品とは何か。サクルダーイよ、それが七科三十七道品である。」

「遊行者よ、第一の科とは、四念処、である。それでは、この四つの念処は、如何なるものか。
第一に、身に対して、不浄であると念じること。
第二に、受に対して、不快であると念じること。
第三に、心に対して、無常であると念じること。
第四に、法に対して、無我であると念じること。」

「遊行者よ、第二の科とは、四正断、である。それでは、この四つの正断は、如何なるものか。
第一に、積んでいる悪業を断じる、断断である。
第二に、積んでない悪業を断じる、修断である。
第三に、積んでいる善業を積む、随護断である。
第四に、積めてない善業を積む、律儀断である。」

「サクルダーイよ、第三の科は、五根である。それでは、この五つの根とは、如何なるものか。
第一に、帰依に関する隠された力、信根である。
第二に、精進に関する隠された力、進根である。
第三に、集中に関する隠された力、念根である。
第四に、禅定に関する隠された力、定根である。
第五に、智慧に関する隠された力、慧根である。」

「サクルダーイよ、第四の科は、五力である。
それでは、この五つの力とは、如何なるものか。

第一に、帰依に関する現われた根、信力である。
第二に、精進に関する現われた根、進力である。
第三に、集中に関する現われた根、念力である。
第四に、禅定に関する現われた根、定力である。
第五に、智慧に関する現われた根、慧力である。」

「遊行者よ、第五の科とは、七覚支、である。それでは、この七つの覚支は、如何なるものか。
第一に、繰り返して法を修める、念覚支である。
第二に、条件に合う法を選ぶ、択法覚支である。
第三に、一心不乱に修行する、精進覚支である。
第四に、法を修めることを喜ぶ、喜覚支である。
第五に、心や体が軽快になる、軽安覚支である。
第六に、瞑想により三昧に至る、定覚支である。
第七に、無為となり自然になる、捨覚支である。」

「遊行者よ、第六の科とは、八正道、である。それでは、この八つの正道は、如何なるものか。
第一に、真理に基き、見解を正す、正見である。
第二に、正見に基き、思索を正す、正思である。
第三に、正思に基き、発言を正す、正語である。
第四に、正語に基き、行為を正す、正業である。
第五に、正業に基き、生活を正す、正命である。
第六に、正命に基き、精進を正す、正進である。
第七に、正進に基き、集中を正す、正念である。
第八に、正念に基き、合一を正す、正定である。」

「遊行者よ、第七の科とは、四如意足である。それでは、この四つの如意は、如何なるものか。
第一に、欲求を以って修める、欲如意足である。
第二に、精進を以って修める、勤如意足である。
第三に、集中を以って修める、心如意足である。
第四に、思索を以って修める、観如意足である。」

第四章

「遊行者よ、弟子は、八つの解脱を修習する。それでは、この八つの解脱は、如何なるものか。
第一解脱では、内に色が有り、外に色を認める。
第二解脱では、内に色が無く、外に色を認める。
第三解脱では、内と外に色が無く、清浄に至る。
第四解脱では、空無辺処を具足して、静止する。
第五解脱では、識無辺処を具足して、静止する。
第六解脱では、無所有処を具足して、静止する。
第七解脱では、非想非非想処に至り、静止する。
第八解脱では、想受滅定を具足して、静止する。」

第五章

「遊行者よ、弟子は、八つの勝処を修習する。それでは、この八つの勝処は、如何なるものか。」

「内に色想が有る、即ち、観念が有るため、外に識別が生じるが、小さければ囚われない。サクルダーイよ、この段階が、第一勝処である。」

「内に色想が有る、即ち、観念が有るため、外に識別が生じるが、大きくても囚われない。サクルダーイよ、この段階が、第二勝処である。」

「内に色想が無い、即ち、観念が無いため、外に識別が生じるが、小さければ囚われない。サクルダーイよ、この段階が、第三勝処である。」

「内に色想が無い、即ち、観念が無いため、外に識別が生じるが、大きくても囚われない。サクルダーイよ、この段階が、第四勝処である。」

「内に色想が無い、即ち、観念が無いため、外に見えている物が、全て、青に輝いている。サクルダーイよ、この段階が、第五勝処である。」

「内に色想が無い、即ち、観念が無いため、外に見えている物が、全て、黄に輝いている。サクルダーイよ、この段階が、第六勝処である。」

「内に色想が無い、即ち、観念が無いため、外に見えている物が、全て、赤に輝いている。サクルダーイよ、この段階が、第七勝処である。」

「内に色想が無い、即ち、観念が無いため、外に見えている物が、全て、白に輝いている。サクルダーイよ、この段階が、第八勝処である。」

第六章

「遊行者よ、弟子は、十段の遍処を修習する。それでは、この十段の遍処は、如何なるものか。
第一遍処では、地遍を、広大無辺に観じている。
第二遍処では、水遍を、広大無辺に観じている。
第三遍処では、火遍を、広大無辺に観じている。
第四遍処では、風遍を、広大無辺に観じている。
第五遍処では、青遍を、広大無辺に観じている。
第六遍処では、黄遍を、広大無辺に観じている。
第七遍処では、赤遍を、広大無辺に観じている。
第八遍処では、白遍を、広大無辺に観じている。
第九遍処では、空遍を、広大無辺に観じている。
第十遍処では、識遍を、広大無辺に観じている。」

第七章

「遊行者よ、弟子は、四つの禅定を修習する。それでは、この四つの禅定は、如何なるものか。」

「第一の禅とは、思いが有り、考えが有り、欲を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。その時、全身は、無欲の歓喜で満たされている。」

「喩えるなら、乾いた粉に水を含ませれば、水を含んだ粉は、容易に崩れ落ちる事が無い。彼らは、離欲の歓喜で、透き通らない事が無い。」

「第二の禅とは、思いが無く、考えが無く、想を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。その時、全身は、無想の喜楽で満たされている。」

「喩えるなら、外から水は入り込まないが、内から湧き出る水で、深泉は遍く広がり渡る。彼らは、無想の歓喜で、透き通らない事が無い。」

「第三の禅とは、正念が有り、正知が有る喜を捨てて生じる、大楽を体験する禅である。その時、全身は、無喜の大楽で満たされている。」

「喩えるなら、泉に咲いている蓮華の花は、下から上に至るまで、冷水で遍く広がり渡る。彼らは、無喜の大楽で、透き通らない事が無い。」

「第四の禅とは、大楽が無く、清浄が有る、楽を捨てて生じる、空性を体験する禅である。その時、全身は、無楽の空性で満たされている。」

「喩えるなら、白衣を頭から被ってしまい、上から下に至るまで、白衣で覆い尽している。彼らは、無楽の清浄で、透き通らない事が無い。」

第八章

「遊行者よ、弟子は、六つの神通を修習する。それでは、この六つの神通は、如何なるものか。」

「一身が多身となれば、多身が一身となる。消えた姿が現れたり、水上を歩き空中を飛ぶ。全ての世界に出現する、これが、神足通である。」

「サクルダーイよ、これを、喩えるならば、泥から器を、焼物師が自由に作るようであり、象牙から器を、象牙師が自在に作るようである。」

「近くの音を聴こえて、遠くの音が聞える。人の声が聞えて来て、神の声が聴こえて来る。聞えない音が聴こえる、これが、天耳通である。」

「サクルダーイよ、これを、喩えるならば、法螺貝を吹き、音が四方に広がるようであり、その大きな音が、皆に聞えるようなものである。」

「貪りを貪りと知れば、怒りを怒りと知る。疑いを疑いと知れば、善き心を善き心と知る。他の人の心を理解する、これが、他心通である。」

「サクルダーイよ、これを、喩えるならば、自らの姿を湖面に映して、美しい者は美しい、醜い者は醜いと、鏡を眺めるようなものである。」

「あの時の姓はこうで、あの生の名はこう。あの生の糧はこうで、あの時の世の中はこう。前の時の世を理解する、これが、宿命通である。」

「サクルダーイよ、これを、喩えるならば、久し振りに、あの町から、この街に来た者が、あの町から来ていると、知るようなものである。」

「近くの物を見とめて、遠くの者を認める。この世が見えて来て、あの世が現われて来る。見えない物を観とめる、これが、天眼通である。」

「サクルダーイよ、これを、喩えるならば、この人は此方に向い、あの人は彼方に向うと、街の中央に立って、道を見るようなものである。」

「この人は漏れていて、あの人は漏れない。あの煩悩から漏れて、この煩悩から漏れない。煩悩の漏れを滅尽する、これが、漏尽通である。」

「サクルダーイよ、これを、喩えるならば、静かな湖面に、鳥たちが舞い降りて来た時に、その波紋を見て、訪れを知るようなものである。」

「サクルダーイよ、これが、尊敬される条件。仏陀が弟子に尊敬されている、五つの法である。」

これらの法を聞いた、遊行者サクルダーイは、この教えを承り、実践しようと心から決意した。

如来唄 (にょらいばい)

處世界如虚空
しょせかいじょきょうこう

如蓮華不著水
じょれんがふちゃくすい

心清浄超於彼
しんせいせいてうよひ

稽首禮無上尊
けいしゅれいぶしょうそん

 

世界に処すること虚空の如く。
蓮華の水に著せざるが如し。
心清浄にして彼の境地を超ゆる。
稽首して無上尊を礼したてまつる。

蓮は泥より出でて泥に染まらず

蓮を観じて自浄を知り (はちすをかんじてじじょうをしり)

菓を見て心徳を覚る (このみをみてしんとくをさとる)

― 般若心経秘鍵 ―

 

蓮華が泥中から出ても清らかであるように、衆生の心も煩悩に苛まれていても本来清らかであることを悟り、蓮華の種を見て、心にあらゆる徳性が備わっていることを悟る。

蓮は泥より出でて泥に染まらず、どころか、泥が黒いほど蓮華は白く咲くといいます。