修行は誰がために

仏教は、わたしたちの心または意識が、始まりとてない無限の過去から 一度たりととぎれることなく連綿と流れつづけてきた、という真実から出発する。この心の流れのことを「心の連続体 (セム・ギ・ギュウ)」と呼ぶことにしよう 。さてこの心の連続体は輪廻する世界にあらわれて、次から次へと再生をくりかえしてきた。出口のない鎖の輪のような輪廻には始まりというものがない。あなたをはじめ、すべての生きものたちがこの輪の中で、一つの生の形から別の生の形 へと再生をくりかえし、さまよいつづけてきたのである。だとしたら、あなたはこの世界にありとある生きものの中に、かつてあなたの父や母でなかったものなど 一つもないという事実に気づかなければいけない。あなたがかつて虫であった時、犬や猫であった時、あるいは餓鬼や地獄の住人であった時、あなたの父や母となった生きものたちは、生まれたばかりで無力なあなたをありったけの愛情でつつみ、いつくしんでくれたものである。あな たの父や母とな った生きものたちもまた、この輪廻の中で再生をくりかえしてきた。だから今あなたのまわりにいるすべての生きものが、かつてあなたを優しい愛情でつつんでくれた父母であったなつかしいものたちなのだ。

ところで、かつて父や母であったこれら生きものたちが本当に望んでいるものはなんだろう。もちろん快適な生を送ること、つまり幸福である。どうやったらそれを手に入れることができるか を、彼らがはじめから知っていたら、彼らはすぐさま幸福を手に入れていたことだろう。生きもの たちは幸福を望みながらも、どうやればそれが手に入るか知らずにいるので、幸福を求めて結局は 苦しみを手にしてしまうのだ。何が本当の幸福をもたらすか。十の善なる行為を行なうことによっ てもたらされる、と仏教は説いている。

十の善なる行為とは、殺すことなく生命をいつくしむ、盗むことなく施しを行なう、邪浬をおか すことなく異性と清浄な関係を保つ、嘘をつかず真実を語る、粗暴な言葉でののしらず優しさのこもった言葉でしゃべる、争いごとをやめ和やかに人と交わる、戯れ言にうつつをぬかさず本当に大 事なことを語る、貪らず、ねたみをもたない、唄る心をなくし他の者を助けようという心をもつ、まちがった見解を捨て正しく物事の本質を見ぬく、この十をいう。
生きものたちは幸福を望みなが らこの十の善の行為をなさず、それらすべてと正反対の十悪の行為を行なっているので、結局苦し みがもたらされてしまうのである。望みと行ないが逆立ちしているのだ。あなたはまず、この逆立 ちした生を送る生きものたちすべてを、深い慈悲の心で見つめなさい。
そのうえで、こんなふうに考えなさい。「わたしは今、真理に耳をかたむけその実践の道に入ろう としている。しかし、それはわたし自身のためにだけ行なうのではない。その修行で得たものを、 かつてわたしの父母であ った輪廻に迷うものたちの方に回して、彼らが苦しみや障害から解き放た れる助けになるように、わたしは修行の道に入るのだ」と。こういう利他心をいつも胸にいだき、育んでいくのである。利他心を背景としない大乗仏教の修行者などありえない。

だから、どんな修行でもそれをはじめる前に、この修行は苦しみの海に沈んだすべての生きもののためにあるのだという、はっきりした意識をもつ必要がある。その次に、どんな修行にはげむにせよ、たえず日常の意識をつきやぶる努力をしなければいけない。つまり、自分は今これこれのこ とをしているのだとか、誰それのためにしているのだとかいった考えをうちやぶらなくてはならないのだ。 そもそも、自分は修行者だなどという思いさえ浮かばないようにすることが大切である。修行している自分も、修行の目的も、修行そのものも、実はなんの実体もないものなのだから。実体のな いところに実体があるように思いこめば、善なる行為そのものが汚されてしまう。実体の幻影にあ ざむかれてはいけない。そうして三つめには、どんな修行をなしおえたにせよ、その徳を生きもの すべてにささげることで、修行という行為そのものに封印をして、嫉妬などによる破壊から守 って やる必要がある。善なる行為をすべて利他にささげることで、それは広大な心の連続体にしっかり
と結びつけられ、二度と破壊できないものとなるだろう

中沢新一、ラマ・ケツン・サンポ 『虹の階梯』

五過失とその対応

禅定中に殆どの初心者が苦しめられる、五つの主なる障害。

1.懈怠(怠け心)

修行する時に床から起き出す十分な力がない限り、禅定を始めることすらできない。冷水や身体運動は気持ちを引き締めるのに必要な力を引き出し、規律正しい行為を促す。怠け心は禅定中に修行者を悩まし続ける。眠気や手っ取早く済ませたいという誘惑を乗り越えて、内的エネルギーに触れられるまでは、強い意志が必要とされる。精進の報いが修行で求める望みをもたらすまで、怠け心はいつもやる気への入回の手前で気持ちをだらけさせてしまう。それは修行者を何らかの感覚的な天国に耽る放逸へと誘う怠け心であり、世界共通の万能薬として眠気の効力を信じるようにとごまかす怠け心でもある。
 この怠け心に対する方法は、誓願と信念に支えられた努力から成り立つ多面的態度である。修行の経験豊かな友人や師に個人的体験による生き方を語ってもらったり、他人の禅定結果による功徳を知ることは、誓願を保ち続けることにとって大変効果的であろう。また、経典も修行の信念を深めるもうひとつの依り処である。禅定を行いたいという気持ちを起こさせるものは全て、大切なきっかけとして養われるべきである。その結果、悟りに向けられた努力によって、怠け心は目標に到ろうとする自発的意志へと置き換えられていくのである。

2.失念(教えを忘れてしまうこと)

方法を説明するテキストなしに心地よい座布に座ったところで、禅定修行に関する細部を簡単に忘れ去ってしまうことであろう。また、個人的な直観に頼って、正確な教えを安易に曲解してしまうことさえある。分析の対象であるイメージや意識の流れの様子、観想する形、とらえどころのない心など、禅定の対象として示されたいかなるものをも、心の中に常にしっかりと生じさせるべきである。禅定の対象を忘れてしまうことは修行自体を意味のないものにしてしまう。しかし、それにもかかわらず、この忘れっぽさは修行の初歩的な段階にはよくあることである。無理強いは、エネルギーのムダ使いであることをよく覚えておかなければならない。教えを思い出すことが出来なくても落胆する必要などない。その対策は、怠惰の雲を吹き飛ばす誓願によって支えられた忍耐力を保つことである。記憶力は禅定が深まるにつれ高まってくるものである。
 怠け心と忘れっぽさは、修行の初期にみられる二つの根元的な障害である。そして、精神集中に対する慣れが起こってきた時には、次の二つの傾向が取り除かれなければならない。

3.惛沈(心の不活発)
自己敗北的傾向の一つ。

これは三味の一種のように思われさえするが、これはまったく無益なものである。集中力の対象が常に心の中に残ったり迷いが生じることはないが、その状態は心の平和にとって間違ったものである。初心者は、もし思考や感情の迷い、またいかなる感覚的知覚も起きることがなければ、静寂よりも不活発の方が優れていると思うかもしれない。しかし、平静の眠気の中では何も得ることはないであろう。

4.掉挙(落ち着きのなさ)
もう一つの自己敗北的傾向。

心は絶えず形に魅せられ、興奮状態の中をさまよい続けている。散漫の真っただ中にいるのである。知覚はとても明確で鋭いのだが、蛾に囲まれたローソクの炎のように集中力の対象物は捉えにくいものになると言われている。この二つの状態への共通の対策は、心の持ち方にかかっている 注意深さによって、内的無感覚さへの堕落や外的魅惑への散漫のどちらをも防げるはずである。これら二つの傾向を警戒し、極端という危険性に対して常に注意力を保つことで、不活発や落ち着きの無さのどちらでもないものが成熟した禅定の実りを導いてくれるであろう。

5.行(集中による極端な力み)

落ち着きのドアを無理矢理こじ開ける必要などどこにもない。たった一つの狭い出口しかないとしたら、うろたえた群衆は乱暴になってしまう。リラックスによってのみ達成される目的を早まって無理強いする必要はなく、もしそうすれば、心は傷つき苦痛を受けることであろう。意識の背後にある堕落の圧力を除き去ろうとうろたえることは、抑圧という怪物がさらにまた怪物を生み出すことと同じくらいに無意味である。平静と忍耐は最も素早く、また最も価値のある結果をもたらすことであろう。リアリティと一番密接な中道と、完全なる自由の達成を表す調和点は、常に存在するはずである。落ち着きのドアを無理矢理こじ開ける必要などどこにもない。たった一つの狭い出回しかないとしたら、うろたえた群衆は乱暴になってしまう。リラックスによってのみ達成される目的を早まって無理強いする必要はなく、もしそうすれば、心は傷つき苦痛を受けることであろう。
意識の背後にある堕落の圧力を除き去ろうとうろたえることは、抑圧という怪物がさらにまた怪物を生み出すことと同じくらいに無意味である。平静と忍耐は最も素早く、また最も価値のある結果をもたらすことであろう。リアリティと一番密接な中道と、完全なる自由の達成を表す調和点は、常に存在するはずである。

これら五過失の名前を覚えていることはたやすい。しかし、修行中に起こった時、これらを認識することは難しい。清浄な知覚が混乱することで知性が死滅し、恐れが生ずる。これは修行をする上で、最も生じやすい障害であり、正しい禅定に対して巧みにごまかす言い訳をするのである。
 禅定中に起こった経験を説明することのできる友人と話をすることは大変良いことである。一度障害を捉え、明確にすることができると、その破壊力は大きな力となる。しかし、もしもそれを見分けることができなけば、知らないうちに恐ろしい雲が真っ暗に覆い、修行の進歩は全く見られることがないだろう。

― ラマミ・パム 『静寂と明晰 チベット仏教ゾクチェン修習次第』

グルについてのメモ

近頃色々とあってね。


大乗仏教徒のアプローチにおける精神の友は、卓越した精神的境地を実現し、日常的な できごとにも深く精通していると見なされる。彼はけっして揺らぐことのない自覚を持ち、要点を見逃さない。また私たちの否定的な傾向に対処してゆけるだけの慈悲心を育ててきている。精神性の道をあなたが歩こうとすることは、彼にはまったくの冗談と映るかもしれない。あなたは完全に 混乱した不条理な人物として振舞うかもしれない。にもかかわらず彼は望みを捨てない。あなたを 受け入れ、あなたが生み出す腹立たしい状況と真剣に取り組んでゆく。彼は恐ろしいほど忍耐強い。何か間違 ったことをすれば、そのやりなおし方法を教えてくれる。ところがあなたはついへまをしたり、彼の指示を曲解したりしてますます失敗を重ねてしまう。そこで彼のもとに戻り、彼の 言葉を待つ。「大丈夫。まだ何とかできるだろう。だが今度は別のやり方を試してみよう。」再度の試みがなされる。絶対にやれる、といった確信とものすごいエネルギーを投入し取り組んでゆく。 しかし何日かすると何もかもが面倒臭くな ってくる。そこであなたは、自分を楽しませてくれそう なまったく別の対象を物色する。精神の友は、本を読まずに集中的な瞑想を修行するよう指示する。ところが本はあなたの膝元に飛びこんでくる。読まずにはいられない。それは教えの一部でもあるかのようだ。そこでまた彼のところへ戻り、こんなことを言う。「あなたの指示には従ったのですが、この本が再三膝元に飛びこんでくるので読まずにはいられません。」「よろしい。何かその 本から学ぶところがあったかね? もしそうなら読み進めなさい。そしてそれが言わんとしていることを読み取りなさい。」そう彼が言ったのであなたは部屋に戻り読み始めるが、それにもまた飽きてしまう。季節は春である。花が咲き木々は新緑の頃、自然は魅力にあふれていて読書などに集中できない。あなたは外に出て散歩でもしたい気分になる。自然の美しさを味わいながら 〈瞑想的な〉気分を楽しもうというわけだ。行を修めるのはとてもむずかしい。横道にそれていることに気 がつかないまま、たえず横道をつくり出してしまう。問題なのは精神の友への不服従ではない。問題は実際あなたがあまりに深刻すぎるところにある。過度に深刻すぎるから横道にそれてしまう。修行から脱けたりはいったりする軽薄さというあなたの無礼に対し、精神の友は並はずれた忍耐を強いられているのだ。

チョギャム・トゥルンパ『タントラ 狂気の智慧』