大ラーフラ教誡経

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第一章

 このように私は聞いた ──
 あるとき、世尊は、サーヴァッティに近いジェータ林のアナータピンディカ僧院に住んでおられた。
 さて、世尊は、午前時に着衣され、鉢衣を保ち、サーヴァッティへ托鉢に入られた。尊者ラーフラもまた、午前時に着衣し、鉢衣を保ち、世尊の後に従って行った。
 ときに、世尊は顧みられ、尊者ラーフラに話しかけられた。
 「ラーフラよ、過去・未来・現在のいかなる色も、内にあるものであれ、外にあるものであれ、粗大なものであれ、微細なものであれ、劣ったものであれ、勝れたものであれ、あるいは遠くのものも近くのものも、すべて色は、〈 これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない 〉 と、このように如実に、正しく、慧によって見られるべきです」 と。
 「世尊よ、色のみでありましょうか。善逝よ、色のみでありましょうか」
 「ラーフラよ、色もです。ラーフラよ、受もです。ラーフラよ、想もです。ラーフラよ、もろもろの行もです。ラーフラよ、識もです」 と。
 さて、尊者ラーフラは 〈 世尊から面前で教誡を受けて、誰が今や村へ托鉢に入るであろうか 〉 と、そこから引き返した。そして、ある樹の根元で跏趺を組み、身体を真っ直ぐに保ち、念を全面に凝らして坐った。尊者サーリプッタは、尊者ラーフラがある樹の根元で跏趺を組み、身体を真っ直ぐに保ち、念を全面に凝らして坐っているのを見た。見て、尊者ラーフラに告げて言った。
 「ラーフラよ、入出息の念を修習しなさい。」

 

第二章

 さて、尊者ラーフラは夕方、独坐から立ち上がり、世尊がおられるところへ近づいて行った。行って、世尊を礼拝し、一方に坐った。一方に坐った尊者ラーフラは、世尊にこう申しあげた。
 「尊師よ、入出息の念をどのように修習し、どのように復習するならば、大きな果報があり、大きな功徳があるのでしょうか」
 「ラーフラよ、およそ内の、各自にある、堅い、粗い、執取されたものがあります。たとえば、髪・毛・爪・歯・皮、肉・筋・骨・骨髄・腎臓、心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺臓、腸・腸間膜・胃物・大便、あるいはまた、その他どのようなものであれ、内の、各自の、堅い、粗い、執取されたものです。ラーラよ、これが、内の地界と言われます。
 そしてまた、内の地界であるもの、および外の地界であるもの、これがすなわち地界です。それについて、『これは私のものではない』『これは私ではない』『これは私の我ではない』 とこのように、これが如実に、正しく、慧によって見られるべきです。このようにこれを如実に、正しく、慧によって見て、地界について厭い、地界について心を遠ざけます。

 

第三章

 つぎに、ラーフラよ、水界とは何か。内の水界と外の水界ということになります。
 それでは、ラーフラよ、何が内の水界であるのか。内の、各自にある、水、水と化すもの、執取されたものです。たとえば胆汁、痰、膿、血、汗、脂肪、涙、脂肪油、唾、鼻液、関節液、小便、あるいはまた、その他どのようなものであれ、内の、各自にある、水、水と化すもの、執取されたものです。ラーフラよ、これが内の水界と言われます。
 そしてまた、内の水界であるもの、および外の水界であるもの、これがすなわち水界です。それについて、『これは私のものではない』『これは私ではない』『これは私の我ではない』 とこのように、これが如実に、正しく、慧によって見られるべきです。このようにこれを如実に、正しく、慧によって見て、水界について厭い、水界について心を遠ざけます。

第四章

 つぎに、ラーフラよ、火界とは何か。内の火界と外の火界ということになります。
 それでは、ラーフラよ、何が内の火界であるのか。内の、各自にある、火、火と化すもの、執取されたものです。たとえばそれによって熱せられ、またそれによって老化され、またそれによって焼かれ、またそれによって食べられるもの・飲まれるもの・噛まれるもの・味わわれるものが正しく消化するもの、あるいはまた、その他どのようなものであれ、内の、各自にある、火、火と化すもの、執取されたものです。ラーフラよ、これが内の火界と言われます。
 そしてまた、内の火界であるもの、および外の火界であるもの、これがすなわち火界です。それについて、『これは私のものではない』『これは私ではない』『これは私の我ではない』 とこのように、これが如実に、正しく、慧によって見られるべきです。このようにこれを如実に、正しく、慧によって見て、火界について厭い、火界について心を遠ざけます。

 

第五章

 つぎに、ラーフラよ、風界とは何か。内の風界と外の風界ということになります。
 それでは、ラーフラよ、何が内の風界であるのか。内の、各自にある、風、風と化すもの、執取されたものです。たとえば、上向きの風、下向きの風、腹の外の風、腹のうちの風、四肢に従う風、出息、入息など、あるいはまた、その他どのようなものであれ、内の、各自にある、風、風と化すもの、執取されたものです。ラーフラよ、これが内の風界と言われます。
 そしてまた、内の風界であるもの、および外の風界であるもの、これがすなわち風界です。それについて、『これは私のものではない』『これは私ではない』『これは私の我ではない』 とこのように、これが如実に、正しく、慧によって見られるべきです。このようにこれを如実に、正しく、慧によって見て、風界について厭い、風界について心を遠ざけます。

 

第六章

 つぎに、ラーフラよ、空界とは何か。内の空界と外の空界ということになります。
 それでは、ラーフラよ、何が内の空界であるのか。内の、各自にある、空、空と化すもの、執取されたものです。たとえば、耳孔、鼻孔、口腔、また、それによって食べられるもの・噛まれるもの・味わわれるものを飲み込む、また、そこに食べられるもの・噛まれるもの・味わわれるものがとどまる、また、それによって食べられるもの・噛まれるもの・味わわれるものが下部に出る、あるいはまた、他のどのようなものであれ、内の、各自にある、空、空と化すもの、虚空、虚空と化すもの、血肉によって触れられないもの、執取されたものです。ラーフラよ、これが内の空界と言われます。
 そしてまた、内の空界であるもの、および外の風界であるもの、これがすなわち空界です。それについて、『これは私のものではない』『これは私ではない』『これは私の我ではない』 とこのように、これが如実に、正しく、慧によって見られるべきです。このようにこれを如実に、正しく、慧によって見て、空界について厭い、空界について心を遠ざけます。

 

第七章

 ラーフラよ、地のように修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、地のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。たとえば、ラーフラよ、地に清浄なものを投棄しても、不浄なものを投棄しても、糞そのものを投棄しても、尿そのものを投棄しても、唾そのものを投棄しても、膿そのものを投棄しても、血そのものを投棄しても、地はそれによって憂えたり、恥じたり、嫌悪したりすることがありません。ちょうどそのように、ラーフラよ、そなたも地のように修習しなさい。地のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。
 ラーフラよ、水のように修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、水のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。たとえば、ラーフラよ、水において清浄なものを洗っても、不浄なものを洗っても、糞そのものを洗っても、尿そのものを洗っても、唾そのものを洗っても、膿そのものを洗っても、血そのものを洗っても、水はそれによって憂えたり、恥じたり、嫌悪したりすることがありません。ちょうどそのように、ラーフラよ、そなたも水のように修習しなさい。水のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。
 ラーフラよ、火のように修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、火のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。たとえば、ラーフラよ、火は清浄なものを焼いても、不浄なものを焼いても、糞そのものを焼いても、尿そのものを焼いても、唾そのものを焼いても、膿そのものを焼いても、血そのものを焼いても、火はそれによって憂えたり、恥じたり、嫌悪したりすることがありません。ちょうどそのように、ラーフラよ、そなたも火のように修習しなさい。火のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。
 ラーフラよ、風のように修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、風のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。たとえば、ラーフラよ、風が清浄なものに吹きつけても、不浄なもの吹きつけても、糞そのものに吹きつけても、尿そのものに吹きつけても、唾そのものに吹きつけても、膿そのものに吹きつけても、血そのものに吹きつけても、風はそれによって憂えたり、恥じたり、嫌悪したりすることがありません。ちょうどそのように、ラーフラよ、そなたも風のように修習しなさい。風のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。
 ラーフラよ、空のように修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、空のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。たとえば、ラーフラよ、空はどこにも定着することがありません。ちょうどそのように、ラーフラよ、そなたも空のように修習しなさい。空のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。

 

第八章

 ラーフラよ、慈しみを修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、慈しみを修習するそなたには、怒りというものが捨てられるであろうからです。
 ラーフラよ、憐れみを修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、憐れみを修習するそなたには、害心というものが捨てられるであろうからです。
 ラーフラよ、喜びを修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、喜びを修習するそなたには、不快というものが捨てられるであろうからです。
 ラーフラよ、平静を修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、平静を修習するそなたには、対立というものが捨てられるであろうからです。
 ラーフラよ、不浄を修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、不浄を修習するそなたには、貪りというものが捨てられるであろうからです。
 ラーフラよ、無常想を修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、無常想を修習するそなたには、我の慢というものが捨てられるであろうからです。

 

第九章

ラーフラよ、出入息の念を修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、出入息の念を修習し、復習するならば、そなたに大きな果報があり、大きな功徳があるからです。
 では、ラーフラよ、出入息の念をどのように修習し、どのように復習するならば、大きな果報があり、大きな功徳があるのか。ラーフラよ、ここに比丘たちは、森に行くか、樹下に行くか、空屋に行って、跏趺を組み、身を真っ直ぐに保ち、全面に念を凝らして坐ります。
 かれは、念をそなえて出息し、念をそなえて入息します。
 長く出息するときは 〈 私は長く出息する 〉 と知り、あるいは、長く入息するときは 〈 私は長く入息する 〉 と知ります。また、短く出息するときは 〈 私は短く出息する 〉 と知り、あるいは、短く入息するときは 〈 私は短く入息する 〉 と知ります。
 〈 私は全身を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は全身を感知して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は身行を静めつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は身行を静めつつ入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は喜びを感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は喜びを感知して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は楽を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は楽を感知して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は心行を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心行を感知して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は心行を静めつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心行を静めつつ入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は心を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を感知して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は心を満たしつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を満たしつつ入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は心を統一しつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を統一しつつ入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は心を解放させつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は心を解放させつつ入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は無常を随観して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は無常を随観して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は離貪を随観して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は離貪を随観して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は寂滅を随観して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は寂滅を随観して入息しよう 〉 と学びます。
 〈 私は破棄を随観して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は破棄を随観して入息しよう 〉 と学びます。
 ラーフラよ、出入息の念をこのように修習し、このように復習するならば、大きな果報があり、大きな功徳があります。
 ラーフラよ、出入息の念がこのように修習され、このように復習される場合、それらの最後の出息も確かに知られるとおりに消滅します。知られないままにではありません」 と。
 このように世尊は言われた。
 尊者ラーフラは喜び、世尊が説かれたことに歓喜した、と。

大サクルダーイ経

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第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、ラージャグリハの、カランダカニヴァーパに、止まっておられた。

その地には、著名な遊行者が、多く集っていた。

そして、仏陀が、サクルダーイを訪れると、彼らの集団は、大声を出して、論争していた。

しかし、仏陀の到来に気づくと、彼らは言った。

「諸賢よ、静かにしろ、諸賢よ、静かにしろ。沙門ゴータマが来られた、彼は論争を好まない。」

サクルダーイは、仏陀に恭しく挨拶すると、仏陀に席を譲って、自らは低い場所に座った。

そして、仏陀に対して、このように語り掛けた。

「仏陀よ、先日、婆羅門が、一堂に会した時、次のような話題が、彼らの中に起こったのです。」

『アンガの国、マガタの国は、実に幸せだ。というのも、夏になると、ラージャガハには、多くの婆羅門が訪れて、多くの法を説くからだ。

第一には、サンジャヤ・べーラッティプッタが、

第二に、ニガンタ・ナータプッタが訪れようし、

第三に、アジタ・ケーサカンバラが訪れようし、

第四に、バクダ・カッチャヤーナが訪れようし、

第五に、プラーナ・カッサパが訪れるだろうし、

第六に、マッカリ・ゴーサラが訪れるだろうし、

第七に、ゴータマ・シッダルダが訪れるだろう。』

「そのとき、ある婆羅門が、こう言いました。」

『本当だろうか、彼らを、同列に扱えるものか。』

『彼らの中で、ゴータマが飛び抜けている。確かに他の師も、多くの弟子を持っているが、彼らの弟子は、彼の弟子と、全く異なっている。』

『例えば、ゴータマが、法を説いていると、彼の弟子は、微動だにせず、咳ひとつしない。一方、他の師の弟子は、師の法を軽んじている。』

『例えば、ゴータマの、法に従えないとき、彼の弟子は、仏陀を攻めず、我が身を責める。一方、他の師の弟子は、師の方を責めてしまう。』

「仏陀よ、このように、他の師とは異なり、仏陀は、自らの弟子達に、崇敬されています。それゆえ、周りの婆羅門に、尊敬されるのです。」

第二章

「サクルダーイよ、弟子に尊敬される条件、弟子が私を尊敬する理由に、五つの法がある。それでは、この五つの法とは、如何なるものか。」

「第一に、最上の戒を、具えることである。師匠が戒を備えると、弟子も戒を供え始める。これによって、仏陀は、弟子から尊敬を受ける。」

「第二に、最上の定を、具えることである。師匠が定を備えると、弟子も定を供え始める。これによって、仏陀は、弟子から尊敬を受ける。」

「第三に、最上の慧を、具えることである。師匠が慧を備えると、弟子も慧を供え始める。これによって、仏陀は、弟子から尊敬を受ける。」

「第四に、最上の諦を、具えることである。師匠が諦を備えると、弟子も諦を供え始める。これによって、仏陀は、弟子から尊敬を受ける。」

「第五に、最上の品を、具えることである。師匠が品を備えると、弟子も品を供え始める。これによって、仏陀は、弟子から尊敬を受ける。」

第三章

「サクルダーイよ、それでは、最上の道品。苦悩の滅尽に至る道、道諦である品とは何か。サクルダーイよ、それが七科三十七道品である。」

「遊行者よ、第一の科とは、四念処、である。それでは、この四つの念処は、如何なるものか。
第一に、身に対して、不浄であると念じること。
第二に、受に対して、不快であると念じること。
第三に、心に対して、無常であると念じること。
第四に、法に対して、無我であると念じること。」

「遊行者よ、第二の科とは、四正断、である。それでは、この四つの正断は、如何なるものか。
第一に、積んでいる悪業を断じる、断断である。
第二に、積んでない悪業を断じる、修断である。
第三に、積んでいる善業を積む、随護断である。
第四に、積めてない善業を積む、律儀断である。」

「サクルダーイよ、第三の科は、五根である。それでは、この五つの根とは、如何なるものか。
第一に、帰依に関する隠された力、信根である。
第二に、精進に関する隠された力、進根である。
第三に、集中に関する隠された力、念根である。
第四に、禅定に関する隠された力、定根である。
第五に、智慧に関する隠された力、慧根である。」

「サクルダーイよ、第四の科は、五力である。
それでは、この五つの力とは、如何なるものか。

第一に、帰依に関する現われた根、信力である。
第二に、精進に関する現われた根、進力である。
第三に、集中に関する現われた根、念力である。
第四に、禅定に関する現われた根、定力である。
第五に、智慧に関する現われた根、慧力である。」

「遊行者よ、第五の科とは、七覚支、である。それでは、この七つの覚支は、如何なるものか。
第一に、繰り返して法を修める、念覚支である。
第二に、条件に合う法を選ぶ、択法覚支である。
第三に、一心不乱に修行する、精進覚支である。
第四に、法を修めることを喜ぶ、喜覚支である。
第五に、心や体が軽快になる、軽安覚支である。
第六に、瞑想により三昧に至る、定覚支である。
第七に、無為となり自然になる、捨覚支である。」

「遊行者よ、第六の科とは、八正道、である。それでは、この八つの正道は、如何なるものか。
第一に、真理に基き、見解を正す、正見である。
第二に、正見に基き、思索を正す、正思である。
第三に、正思に基き、発言を正す、正語である。
第四に、正語に基き、行為を正す、正業である。
第五に、正業に基き、生活を正す、正命である。
第六に、正命に基き、精進を正す、正進である。
第七に、正進に基き、集中を正す、正念である。
第八に、正念に基き、合一を正す、正定である。」

「遊行者よ、第七の科とは、四如意足である。それでは、この四つの如意は、如何なるものか。
第一に、欲求を以って修める、欲如意足である。
第二に、精進を以って修める、勤如意足である。
第三に、集中を以って修める、心如意足である。
第四に、思索を以って修める、観如意足である。」

第四章

「遊行者よ、弟子は、八つの解脱を修習する。それでは、この八つの解脱は、如何なるものか。
第一解脱では、内に色が有り、外に色を認める。
第二解脱では、内に色が無く、外に色を認める。
第三解脱では、内と外に色が無く、清浄に至る。
第四解脱では、空無辺処を具足して、静止する。
第五解脱では、識無辺処を具足して、静止する。
第六解脱では、無所有処を具足して、静止する。
第七解脱では、非想非非想処に至り、静止する。
第八解脱では、想受滅定を具足して、静止する。」

第五章

「遊行者よ、弟子は、八つの勝処を修習する。それでは、この八つの勝処は、如何なるものか。」

「内に色想が有る、即ち、観念が有るため、外に識別が生じるが、小さければ囚われない。サクルダーイよ、この段階が、第一勝処である。」

「内に色想が有る、即ち、観念が有るため、外に識別が生じるが、大きくても囚われない。サクルダーイよ、この段階が、第二勝処である。」

「内に色想が無い、即ち、観念が無いため、外に識別が生じるが、小さければ囚われない。サクルダーイよ、この段階が、第三勝処である。」

「内に色想が無い、即ち、観念が無いため、外に識別が生じるが、大きくても囚われない。サクルダーイよ、この段階が、第四勝処である。」

「内に色想が無い、即ち、観念が無いため、外に見えている物が、全て、青に輝いている。サクルダーイよ、この段階が、第五勝処である。」

「内に色想が無い、即ち、観念が無いため、外に見えている物が、全て、黄に輝いている。サクルダーイよ、この段階が、第六勝処である。」

「内に色想が無い、即ち、観念が無いため、外に見えている物が、全て、赤に輝いている。サクルダーイよ、この段階が、第七勝処である。」

「内に色想が無い、即ち、観念が無いため、外に見えている物が、全て、白に輝いている。サクルダーイよ、この段階が、第八勝処である。」

第六章

「遊行者よ、弟子は、十段の遍処を修習する。それでは、この十段の遍処は、如何なるものか。
第一遍処では、地遍を、広大無辺に観じている。
第二遍処では、水遍を、広大無辺に観じている。
第三遍処では、火遍を、広大無辺に観じている。
第四遍処では、風遍を、広大無辺に観じている。
第五遍処では、青遍を、広大無辺に観じている。
第六遍処では、黄遍を、広大無辺に観じている。
第七遍処では、赤遍を、広大無辺に観じている。
第八遍処では、白遍を、広大無辺に観じている。
第九遍処では、空遍を、広大無辺に観じている。
第十遍処では、識遍を、広大無辺に観じている。」

第七章

「遊行者よ、弟子は、四つの禅定を修習する。それでは、この四つの禅定は、如何なるものか。」

「第一の禅とは、思いが有り、考えが有り、欲を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。その時、全身は、無欲の歓喜で満たされている。」

「喩えるなら、乾いた粉に水を含ませれば、水を含んだ粉は、容易に崩れ落ちる事が無い。彼らは、離欲の歓喜で、透き通らない事が無い。」

「第二の禅とは、思いが無く、考えが無く、想を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。その時、全身は、無想の喜楽で満たされている。」

「喩えるなら、外から水は入り込まないが、内から湧き出る水で、深泉は遍く広がり渡る。彼らは、無想の歓喜で、透き通らない事が無い。」

「第三の禅とは、正念が有り、正知が有る喜を捨てて生じる、大楽を体験する禅である。その時、全身は、無喜の大楽で満たされている。」

「喩えるなら、泉に咲いている蓮華の花は、下から上に至るまで、冷水で遍く広がり渡る。彼らは、無喜の大楽で、透き通らない事が無い。」

「第四の禅とは、大楽が無く、清浄が有る、楽を捨てて生じる、空性を体験する禅である。その時、全身は、無楽の空性で満たされている。」

「喩えるなら、白衣を頭から被ってしまい、上から下に至るまで、白衣で覆い尽している。彼らは、無楽の清浄で、透き通らない事が無い。」

第八章

「遊行者よ、弟子は、六つの神通を修習する。それでは、この六つの神通は、如何なるものか。」

「一身が多身となれば、多身が一身となる。消えた姿が現れたり、水上を歩き空中を飛ぶ。全ての世界に出現する、これが、神足通である。」

「サクルダーイよ、これを、喩えるならば、泥から器を、焼物師が自由に作るようであり、象牙から器を、象牙師が自在に作るようである。」

「近くの音を聴こえて、遠くの音が聞える。人の声が聞えて来て、神の声が聴こえて来る。聞えない音が聴こえる、これが、天耳通である。」

「サクルダーイよ、これを、喩えるならば、法螺貝を吹き、音が四方に広がるようであり、その大きな音が、皆に聞えるようなものである。」

「貪りを貪りと知れば、怒りを怒りと知る。疑いを疑いと知れば、善き心を善き心と知る。他の人の心を理解する、これが、他心通である。」

「サクルダーイよ、これを、喩えるならば、自らの姿を湖面に映して、美しい者は美しい、醜い者は醜いと、鏡を眺めるようなものである。」

「あの時の姓はこうで、あの生の名はこう。あの生の糧はこうで、あの時の世の中はこう。前の時の世を理解する、これが、宿命通である。」

「サクルダーイよ、これを、喩えるならば、久し振りに、あの町から、この街に来た者が、あの町から来ていると、知るようなものである。」

「近くの物を見とめて、遠くの者を認める。この世が見えて来て、あの世が現われて来る。見えない物を観とめる、これが、天眼通である。」

「サクルダーイよ、これを、喩えるならば、この人は此方に向い、あの人は彼方に向うと、街の中央に立って、道を見るようなものである。」

「この人は漏れていて、あの人は漏れない。あの煩悩から漏れて、この煩悩から漏れない。煩悩の漏れを滅尽する、これが、漏尽通である。」

「サクルダーイよ、これを、喩えるならば、静かな湖面に、鳥たちが舞い降りて来た時に、その波紋を見て、訪れを知るようなものである。」

「サクルダーイよ、これが、尊敬される条件。仏陀が弟子に尊敬されている、五つの法である。」

これらの法を聞いた、遊行者サクルダーイは、この教えを承り、実践しようと心から決意した。

修行は誰がために

仏教は、わたしたちの心または意識が、始まりとてない無限の過去から 一度たりととぎれることなく連綿と流れつづけてきた、という真実から出発する。この心の流れのことを「心の連続体 (セム・ギ・ギュウ)」と呼ぶことにしよう 。さてこの心の連続体は輪廻する世界にあらわれて、次から次へと再生をくりかえしてきた。出口のない鎖の輪のような輪廻には始まりというものがない。あなたをはじめ、すべての生きものたちがこの輪の中で、一つの生の形から別の生の形 へと再生をくりかえし、さまよいつづけてきたのである。だとしたら、あなたはこの世界にありとある生きものの中に、かつてあなたの父や母でなかったものなど 一つもないという事実に気づかなければいけない。あなたがかつて虫であった時、犬や猫であった時、あるいは餓鬼や地獄の住人であった時、あなたの父や母となった生きものたちは、生まれたばかりで無力なあなたをありったけの愛情でつつみ、いつくしんでくれたものである。あな たの父や母とな った生きものたちもまた、この輪廻の中で再生をくりかえしてきた。だから今あなたのまわりにいるすべての生きものが、かつてあなたを優しい愛情でつつんでくれた父母であったなつかしいものたちなのだ。

ところで、かつて父や母であったこれら生きものたちが本当に望んでいるものはなんだろう。もちろん快適な生を送ること、つまり幸福である。どうやったらそれを手に入れることができるか を、彼らがはじめから知っていたら、彼らはすぐさま幸福を手に入れていたことだろう。生きもの たちは幸福を望みながらも、どうやればそれが手に入るか知らずにいるので、幸福を求めて結局は 苦しみを手にしてしまうのだ。何が本当の幸福をもたらすか。十の善なる行為を行なうことによっ てもたらされる、と仏教は説いている。

十の善なる行為とは、殺すことなく生命をいつくしむ、盗むことなく施しを行なう、邪浬をおか すことなく異性と清浄な関係を保つ、嘘をつかず真実を語る、粗暴な言葉でののしらず優しさのこもった言葉でしゃべる、争いごとをやめ和やかに人と交わる、戯れ言にうつつをぬかさず本当に大 事なことを語る、貪らず、ねたみをもたない、唄る心をなくし他の者を助けようという心をもつ、まちがった見解を捨て正しく物事の本質を見ぬく、この十をいう。
生きものたちは幸福を望みなが らこの十の善の行為をなさず、それらすべてと正反対の十悪の行為を行なっているので、結局苦し みがもたらされてしまうのである。望みと行ないが逆立ちしているのだ。あなたはまず、この逆立 ちした生を送る生きものたちすべてを、深い慈悲の心で見つめなさい。
そのうえで、こんなふうに考えなさい。「わたしは今、真理に耳をかたむけその実践の道に入ろう としている。しかし、それはわたし自身のためにだけ行なうのではない。その修行で得たものを、 かつてわたしの父母であ った輪廻に迷うものたちの方に回して、彼らが苦しみや障害から解き放た れる助けになるように、わたしは修行の道に入るのだ」と。こういう利他心をいつも胸にいだき、育んでいくのである。利他心を背景としない大乗仏教の修行者などありえない。

だから、どんな修行でもそれをはじめる前に、この修行は苦しみの海に沈んだすべての生きもののためにあるのだという、はっきりした意識をもつ必要がある。その次に、どんな修行にはげむにせよ、たえず日常の意識をつきやぶる努力をしなければいけない。つまり、自分は今これこれのこ とをしているのだとか、誰それのためにしているのだとかいった考えをうちやぶらなくてはならないのだ。 そもそも、自分は修行者だなどという思いさえ浮かばないようにすることが大切である。修行している自分も、修行の目的も、修行そのものも、実はなんの実体もないものなのだから。実体のな いところに実体があるように思いこめば、善なる行為そのものが汚されてしまう。実体の幻影にあ ざむかれてはいけない。そうして三つめには、どんな修行をなしおえたにせよ、その徳を生きもの すべてにささげることで、修行という行為そのものに封印をして、嫉妬などによる破壊から守 って やる必要がある。善なる行為をすべて利他にささげることで、それは広大な心の連続体にしっかり
と結びつけられ、二度と破壊できないものとなるだろう

中沢新一、ラマ・ケツン・サンポ 『虹の階梯』

法身・報身・応身

すべてのあらわれの滅した世界に法身の思念を知り
光輝く空間に報身の浄土を見て
教化する変化身をもって迷えるものを救う
遍智の王者ロンチェン・ラブジャムに礼拝する

ロンチェンパは法身クン ツ・サンポの思念を、言葉によらず象徴によらず、直接無媒介に知りつくしていた。そこはすべてのあらわれの滅した世界であるという。これはどういうことか。わたしたちはちょうど燈油が自分 自身を燃やして火を発するように、心にたえずわきあがってくる感情や思考を自分で消費しながら生きている。感情や思考はゆらめいてはたちのばり、わきあが っては消えていく。こうしたさまざ まな心のあらわれがすべて滅したところに、心の本然の姿がたちあらわれてくる。この心の本然のありようこそ法身にほかならないのである。

法身は微動だにせず、しかも生き生きとしている。それは光の輝きとなって、報身の浄土に輝きでる。

アティヨーガは、きわめてヴィヴィッドにこの光の体験をあたえてくれるが、ロンチェンパ はそこにたゆたっていたというのである。まだ体験のないあなたに、この光の輝きを説明するのは 難しい。夢を例にとって説明してみよう。眠っているあなたが見る夢は、さまざまな欲望や感情に ふくらんだいろいろなかたちやあらわれにみちている。しかし夢の本質は純粋な光の輝きなのであ るっ「夢のヨーガ」という瞑想法を修行すると、普通の夢にあらわれるさまざまなあらわれをしだ いに滅していって、ついには夢が光の輝きに溶けこんでいくのを体験できるようになるだろう。「夢 のヨーガ」の修行者たちは、夢を見る時間をしだいに長くしていく訓練をしていって、眠りにおち る前からすでに夢を見ることができるようになり、瞑想の力でその夢からあらわれを滅し去 って、ついにはそこがまばゆい光の輝きにみたされるまで修行をつづけるのだ。あざやかな光の体験をあたえるゾグチェン=アティヨーガは、しばしば 「光輝く(オーセル)ゾクチェン」と呼ば れている。

仏陀の心はまた変化身として、わたしたちの世界にあらわれでる。さまざまな姿、さまざまな方 法をつうじて、輪廻に迷うものを救うためである。仏陀の心は、ロンチェンパという比類のない教師の姿をとってあらわれでたのである

中沢新一、ラマ・ケツン・サンポ 『虹の階梯』


法身は法界そのものの体現。
報身は修行の境地を表す浄土を伴った如来。
応身は人格を持って教化する如来や菩薩。

五過失とその対応

禅定中に殆どの初心者が苦しめられる、五つの主なる障害。

1.懈怠(怠け心)

修行する時に床から起き出す十分な力がない限り、禅定を始めることすらできない。冷水や身体運動は気持ちを引き締めるのに必要な力を引き出し、規律正しい行為を促す。怠け心は禅定中に修行者を悩まし続ける。眠気や手っ取早く済ませたいという誘惑を乗り越えて、内的エネルギーに触れられるまでは、強い意志が必要とされる。精進の報いが修行で求める望みをもたらすまで、怠け心はいつもやる気への入回の手前で気持ちをだらけさせてしまう。それは修行者を何らかの感覚的な天国に耽る放逸へと誘う怠け心であり、世界共通の万能薬として眠気の効力を信じるようにとごまかす怠け心でもある。
 この怠け心に対する方法は、誓願と信念に支えられた努力から成り立つ多面的態度である。修行の経験豊かな友人や師に個人的体験による生き方を語ってもらったり、他人の禅定結果による功徳を知ることは、誓願を保ち続けることにとって大変効果的であろう。また、経典も修行の信念を深めるもうひとつの依り処である。禅定を行いたいという気持ちを起こさせるものは全て、大切なきっかけとして養われるべきである。その結果、悟りに向けられた努力によって、怠け心は目標に到ろうとする自発的意志へと置き換えられていくのである。

2.失念(教えを忘れてしまうこと)

方法を説明するテキストなしに心地よい座布に座ったところで、禅定修行に関する細部を簡単に忘れ去ってしまうことであろう。また、個人的な直観に頼って、正確な教えを安易に曲解してしまうことさえある。分析の対象であるイメージや意識の流れの様子、観想する形、とらえどころのない心など、禅定の対象として示されたいかなるものをも、心の中に常にしっかりと生じさせるべきである。禅定の対象を忘れてしまうことは修行自体を意味のないものにしてしまう。しかし、それにもかかわらず、この忘れっぽさは修行の初歩的な段階にはよくあることである。無理強いは、エネルギーのムダ使いであることをよく覚えておかなければならない。教えを思い出すことが出来なくても落胆する必要などない。その対策は、怠惰の雲を吹き飛ばす誓願によって支えられた忍耐力を保つことである。記憶力は禅定が深まるにつれ高まってくるものである。
 怠け心と忘れっぽさは、修行の初期にみられる二つの根元的な障害である。そして、精神集中に対する慣れが起こってきた時には、次の二つの傾向が取り除かれなければならない。

3.惛沈(心の不活発)
自己敗北的傾向の一つ。

これは三味の一種のように思われさえするが、これはまったく無益なものである。集中力の対象が常に心の中に残ったり迷いが生じることはないが、その状態は心の平和にとって間違ったものである。初心者は、もし思考や感情の迷い、またいかなる感覚的知覚も起きることがなければ、静寂よりも不活発の方が優れていると思うかもしれない。しかし、平静の眠気の中では何も得ることはないであろう。

4.掉挙(落ち着きのなさ)
もう一つの自己敗北的傾向。

心は絶えず形に魅せられ、興奮状態の中をさまよい続けている。散漫の真っただ中にいるのである。知覚はとても明確で鋭いのだが、蛾に囲まれたローソクの炎のように集中力の対象物は捉えにくいものになると言われている。この二つの状態への共通の対策は、心の持ち方にかかっている 注意深さによって、内的無感覚さへの堕落や外的魅惑への散漫のどちらをも防げるはずである。これら二つの傾向を警戒し、極端という危険性に対して常に注意力を保つことで、不活発や落ち着きの無さのどちらでもないものが成熟した禅定の実りを導いてくれるであろう。

5.行(集中による極端な力み)

落ち着きのドアを無理矢理こじ開ける必要などどこにもない。たった一つの狭い出口しかないとしたら、うろたえた群衆は乱暴になってしまう。リラックスによってのみ達成される目的を早まって無理強いする必要はなく、もしそうすれば、心は傷つき苦痛を受けることであろう。意識の背後にある堕落の圧力を除き去ろうとうろたえることは、抑圧という怪物がさらにまた怪物を生み出すことと同じくらいに無意味である。平静と忍耐は最も素早く、また最も価値のある結果をもたらすことであろう。リアリティと一番密接な中道と、完全なる自由の達成を表す調和点は、常に存在するはずである。落ち着きのドアを無理矢理こじ開ける必要などどこにもない。たった一つの狭い出回しかないとしたら、うろたえた群衆は乱暴になってしまう。リラックスによってのみ達成される目的を早まって無理強いする必要はなく、もしそうすれば、心は傷つき苦痛を受けることであろう。
意識の背後にある堕落の圧力を除き去ろうとうろたえることは、抑圧という怪物がさらにまた怪物を生み出すことと同じくらいに無意味である。平静と忍耐は最も素早く、また最も価値のある結果をもたらすことであろう。リアリティと一番密接な中道と、完全なる自由の達成を表す調和点は、常に存在するはずである。

これら五過失の名前を覚えていることはたやすい。しかし、修行中に起こった時、これらを認識することは難しい。清浄な知覚が混乱することで知性が死滅し、恐れが生ずる。これは修行をする上で、最も生じやすい障害であり、正しい禅定に対して巧みにごまかす言い訳をするのである。
 禅定中に起こった経験を説明することのできる友人と話をすることは大変良いことである。一度障害を捉え、明確にすることができると、その破壊力は大きな力となる。しかし、もしもそれを見分けることができなけば、知らないうちに恐ろしい雲が真っ暗に覆い、修行の進歩は全く見られることがないだろう。

― ラマミ・パム 『静寂と明晰 チベット仏教ゾクチェン修習次第』

グルについてのメモ

近頃色々とあってね。


大乗仏教徒のアプローチにおける精神の友は、卓越した精神的境地を実現し、日常的な できごとにも深く精通していると見なされる。彼はけっして揺らぐことのない自覚を持ち、要点を見逃さない。また私たちの否定的な傾向に対処してゆけるだけの慈悲心を育ててきている。精神性の道をあなたが歩こうとすることは、彼にはまったくの冗談と映るかもしれない。あなたは完全に 混乱した不条理な人物として振舞うかもしれない。にもかかわらず彼は望みを捨てない。あなたを 受け入れ、あなたが生み出す腹立たしい状況と真剣に取り組んでゆく。彼は恐ろしいほど忍耐強い。何か間違 ったことをすれば、そのやりなおし方法を教えてくれる。ところがあなたはついへまをしたり、彼の指示を曲解したりしてますます失敗を重ねてしまう。そこで彼のもとに戻り、彼の 言葉を待つ。「大丈夫。まだ何とかできるだろう。だが今度は別のやり方を試してみよう。」再度の試みがなされる。絶対にやれる、といった確信とものすごいエネルギーを投入し取り組んでゆく。 しかし何日かすると何もかもが面倒臭くな ってくる。そこであなたは、自分を楽しませてくれそう なまったく別の対象を物色する。精神の友は、本を読まずに集中的な瞑想を修行するよう指示する。ところが本はあなたの膝元に飛びこんでくる。読まずにはいられない。それは教えの一部でもあるかのようだ。そこでまた彼のところへ戻り、こんなことを言う。「あなたの指示には従ったのですが、この本が再三膝元に飛びこんでくるので読まずにはいられません。」「よろしい。何かその 本から学ぶところがあったかね? もしそうなら読み進めなさい。そしてそれが言わんとしていることを読み取りなさい。」そう彼が言ったのであなたは部屋に戻り読み始めるが、それにもまた飽きてしまう。季節は春である。花が咲き木々は新緑の頃、自然は魅力にあふれていて読書などに集中できない。あなたは外に出て散歩でもしたい気分になる。自然の美しさを味わいながら 〈瞑想的な〉気分を楽しもうというわけだ。行を修めるのはとてもむずかしい。横道にそれていることに気 がつかないまま、たえず横道をつくり出してしまう。問題なのは精神の友への不服従ではない。問題は実際あなたがあまりに深刻すぎるところにある。過度に深刻すぎるから横道にそれてしまう。修行から脱けたりはいったりする軽薄さというあなたの無礼に対し、精神の友は並はずれた忍耐を強いられているのだ。

チョギャム・トゥルンパ『タントラ 狂気の智慧』

世界はこころの反映

今日はすべきことがあまりにも多いから、

一時間ほど余分に祈りの時間を取らなければならない。

― マルティン・ルター ―

 

娑婆行が慌ただしくなると、自分と向き合う時間を疎かにしがちです。

これは、娑婆でのあれこれと精神世界を、異なる領域として捉えているが故にそうなるのですが、これこそまさに「今ここ」から分離している状態と言えます。

世界の認識とは、こころの状態を反映したものに過ぎません。この二つは実は同じものなのです。

慌ただしさや焦燥感の多くは、思考が作り出しています。思考によって、こころに混乱がもたらされているのです。

ですから、そうしたこころの混乱を感じた時ほど、思考から離れることを意図するべきです。

思考から離れ、自分を感じ、大いなる法の中に我が身を委ねます。

そうすることで、常に「今ここ」に居られるようになります。

何が起ころうとも、それを楽しみ、味わえるようになるでしょう。

 

世俗の問題と煩悩の力

経典の差別語に「心痛む」 本願寺に要望
http://www.chugainippoh.co.jp/religion/news/20170908-006.html

小森氏は浄土三部経の「観無量寿経」(観経)に出てくる「是栴陀羅(せんだら)」を問題視し、人間の平等を説いた親鸞聖人の遺弟である本願寺教団に、問題解決に向けての取り組みを進めるよう強く要望した。

出自による差別は全くもって肯定しませんが、密教的にはこういうものが取り込まれて成立しているようです。

例えばお薬師さんの御真言。

おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
(オーム フルフル チャンダリー マータンギー スヴァーハー : チャンダリーよマータンギーよ、厄病を取り払い給え)

「旃陀羅(せんだら)」もチャンダリー、マータンギーも、語源は恐らく同様で、屠畜を生業とする人々をさしており、彼らの祀る女性神の名前をチャンダリー、マータンギーと呼ぶようになったという説があります。或いは彼ら(彼女ら)は、巫覡のような役割であったのかもしれません。

密教は、煩悩の根源にある力を利用した解脱の道をシステム化したため、世俗の問題も取り込んでいる嫌いがあります。この辺りはこの辺りで保存しつつ、現代社会に受け入れられるようなものにすべきではありますね。

愛は他人の為ならず

リリース・テクニック  レスターの物語
http://mallam.oh.land.to/Mindtech/index.php?%27%27%A5%E1%A5%BD%A5%C3%A5%C9%C8%AF%B8%AB%A4%CB%BB%EA%A4%EB%BC%AB%B8%CA%C3%B5%B5%E1%A4%CE%CE%B9%27%27

 

「問題は彼が愛を受けるに値するか どうかじゃあない。問題はお前が愛に変えられるかだ。ただ嫌悪の感覚を愛の感覚に変える事が可能か?それも他人の恩恵のためにではなく、お前自身のために」

カルマ・ヨーギー 佐々井秀嶺師

インドで1億5千万人の仏教徒を導く、81歳の日本人僧「私には黒い血が流れている」
http://www.jprime.jp/articles/-/10511

佐々井秀嶺師は、独りインドに渡り、半世紀以上に亘ってインド仏教復興活動の中心人物として活動。その身を不可触賤民の改宗や大菩提寺管理権返還運動に費やす。インド仏教会の大立者。

そもそも出家に至るまでに、散々娑婆の煩悩にまみれたり、社会活動に身を投じたりと、娑婆の僧侶の説得力がある。

日本でも、「佐々井のやっていることは仏教ではない。ただの社会運動だ」と批判されたことがあった。

「ただ静かにお経を上げ、お布施をもらうだけが僧侶ではない。何もせんやつに何を言われようとかまわん」と意に介さない。

 

仏教は社会運動なのか?というのは、確かに疑問を挟む余地のある所ではあるが、問題はその点ではない。

仏教は社会運動ではない。しかし、利己的動機全く無しに行われる善行によって、人は清淨となり魂の自由に至るという道もある。
佐々井秀嶺氏は娑婆でそれを実践する大行者だ。

スワミ・ヴィヴェエーカーナンダ師は仰った。

カルマ・ヨーガの教えを本当に実行したある人のことを少しだけ話させて下さい。その人はブッダです。彼はこれを完全な実行に移した唯一の人です。

「私はあなた方の神についてのさまざまの学説を知ろうなどとは思わない。魂についての微妙な教義などを論じて何になるか。善をなせ、そして善良であれ。そうすればこれがあなたを自由に導き、何であれ、そこにある真理に導くのである。」と説いた、たった一人の預言者であります。

彼は「何かの古い写本が出てきたからといって、信じるではない。あなたの民族の信仰であるからといって、子供の時から信じされられてきたからと言って、信じるではない。ただ徹底的に推理し、分析した後に、それは全ての人に善をなすであろうと分かったら、それを信じよ、それを生きよ、そして他の人々もそれを生きるように、彼らを助けよ」と、敢えて言い切った最初の人でした。

仏陀こそは全く動機なしに活動する理想的なカルマ・ヨーギーであると。

佐々井秀嶺師は、間違いなくその系譜に連なるカルマ・ヨーギーにして、ブッディストなのだ。

ジャイ・ビーム!

慈悲の瞑想

私が幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私が幸せでありますように

私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願いごとが叶えられますように
私の親しい人々に悟りの光が現れますように
私の親しい人々が幸せでありますように

私の嫌いな人々が幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな人々に悟りの光が現れますように
私の嫌いな人々が幸せでありますように

私を嫌っている人々が幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている人々に悟りの光が現れますように
私を嫌っている人々が幸せでありますように

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように

満街聖人

「満街ノ人都(スベ)テ是聖人ナルヲ見タリ」

「你(ナンジ)ハ満街ノ人ノ是聖人ナルヲ看タルモ、満街ノ人ハ到(カエ)ッテ你ノ是聖人ナルヲ看ル在リシカラン」

— 王陽明 —

如来唄 (にょらいばい)

處世界如虚空
しょせかいじょきょうこう

如蓮華不著水
じょれんがふちゃくすい

心清浄超於彼
しんせいせいてうよひ

稽首禮無上尊
けいしゅれいぶしょうそん

 

世界に処すること虚空の如く。
蓮華の水に著せざるが如し。
心清浄にして彼の境地を超ゆる。
稽首して無上尊を礼したてまつる。

蓮は泥より出でて泥に染まらず

蓮を観じて自浄を知り (はちすをかんじてじじょうをしり)

菓を見て心徳を覚る (このみをみてしんとくをさとる)

― 般若心経秘鍵 ―

 

蓮華が泥中から出ても清らかであるように、衆生の心も煩悩に苛まれていても本来清らかであることを悟り、蓮華の種を見て、心にあらゆる徳性が備わっていることを悟る。

蓮は泥より出でて泥に染まらず、どころか、泥が黒いほど蓮華は白く咲くといいます。