法身・報身・応身

すべてのあらわれの滅した世界に法身の思念を知り
光輝く空間に報身の浄土を見て
教化する変化身をもって迷えるものを救う
遍智の王者ロンチェン・ラブジャムに礼拝する

ロンチェンパは法身クン ツ・サンポの思念を、言葉によらず象徴によらず、直接無媒介に知りつくしていた。そこはすべてのあらわれの滅した世界であるという。これはどういうことか。わたしたちはちょうど燈油が自分 自身を燃やして火を発するように、心にたえずわきあがってくる感情や思考を自分で消費しながら生きている。感情や思考はゆらめいてはたちのばり、わきあが っては消えていく。こうしたさまざ まな心のあらわれがすべて滅したところに、心の本然の姿がたちあらわれてくる。この心の本然のありようこそ法身にほかならないのである。

法身は微動だにせず、しかも生き生きとしている。それは光の輝きとなって、報身の浄土に輝きでる。

アティヨーガは、きわめてヴィヴィッドにこの光の体験をあたえてくれるが、ロンチェンパ はそこにたゆたっていたというのである。まだ体験のないあなたに、この光の輝きを説明するのは 難しい。夢を例にとって説明してみよう。眠っているあなたが見る夢は、さまざまな欲望や感情に ふくらんだいろいろなかたちやあらわれにみちている。しかし夢の本質は純粋な光の輝きなのであ るっ「夢のヨーガ」という瞑想法を修行すると、普通の夢にあらわれるさまざまなあらわれをしだ いに滅していって、ついには夢が光の輝きに溶けこんでいくのを体験できるようになるだろう。「夢 のヨーガ」の修行者たちは、夢を見る時間をしだいに長くしていく訓練をしていって、眠りにおち る前からすでに夢を見ることができるようになり、瞑想の力でその夢からあらわれを滅し去 って、ついにはそこがまばゆい光の輝きにみたされるまで修行をつづけるのだ。あざやかな光の体験をあたえるゾグチェン=アティヨーガは、しばしば 「光輝く(オーセル)ゾクチェン」と呼ば れている。

仏陀の心はまた変化身として、わたしたちの世界にあらわれでる。さまざまな姿、さまざまな方 法をつうじて、輪廻に迷うものを救うためである。仏陀の心は、ロンチェンパという比類のない教師の姿をとってあらわれでたのである

中沢新一、ラマ・ケツン・サンポ 『虹の階梯』


法身は法界そのものの体現。
報身は修行の境地を表す浄土を伴った如来。
応身は人格を持って教化する如来や菩薩。

五過失とその対応

禅定中に殆どの初心者が苦しめられる、五つの主なる障害。

1.懈怠(怠け心)

修行する時に床から起き出す十分な力がない限り、禅定を始めることすらできない。冷水や身体運動は気持ちを引き締めるのに必要な力を引き出し、規律正しい行為を促す。怠け心は禅定中に修行者を悩まし続ける。眠気や手っ取早く済ませたいという誘惑を乗り越えて、内的エネルギーに触れられるまでは、強い意志が必要とされる。精進の報いが修行で求める望みをもたらすまで、怠け心はいつもやる気への入回の手前で気持ちをだらけさせてしまう。それは修行者を何らかの感覚的な天国に耽る放逸へと誘う怠け心であり、世界共通の万能薬として眠気の効力を信じるようにとごまかす怠け心でもある。
 この怠け心に対する方法は、誓願と信念に支えられた努力から成り立つ多面的態度である。修行の経験豊かな友人や師に個人的体験による生き方を語ってもらったり、他人の禅定結果による功徳を知ることは、誓願を保ち続けることにとって大変効果的であろう。また、経典も修行の信念を深めるもうひとつの依り処である。禅定を行いたいという気持ちを起こさせるものは全て、大切なきっかけとして養われるべきである。その結果、悟りに向けられた努力によって、怠け心は目標に到ろうとする自発的意志へと置き換えられていくのである。

2.失念(教えを忘れてしまうこと)

方法を説明するテキストなしに心地よい座布に座ったところで、禅定修行に関する細部を簡単に忘れ去ってしまうことであろう。また、個人的な直観に頼って、正確な教えを安易に曲解してしまうことさえある。分析の対象であるイメージや意識の流れの様子、観想する形、とらえどころのない心など、禅定の対象として示されたいかなるものをも、心の中に常にしっかりと生じさせるべきである。禅定の対象を忘れてしまうことは修行自体を意味のないものにしてしまう。しかし、それにもかかわらず、この忘れっぽさは修行の初歩的な段階にはよくあることである。無理強いは、エネルギーのムダ使いであることをよく覚えておかなければならない。教えを思い出すことが出来なくても落胆する必要などない。その対策は、怠惰の雲を吹き飛ばす誓願によって支えられた忍耐力を保つことである。記憶力は禅定が深まるにつれ高まってくるものである。
 怠け心と忘れっぽさは、修行の初期にみられる二つの根元的な障害である。そして、精神集中に対する慣れが起こってきた時には、次の二つの傾向が取り除かれなければならない。

3.惛沈(心の不活発)
自己敗北的傾向の一つ。

これは三味の一種のように思われさえするが、これはまったく無益なものである。集中力の対象が常に心の中に残ったり迷いが生じることはないが、その状態は心の平和にとって間違ったものである。初心者は、もし思考や感情の迷い、またいかなる感覚的知覚も起きることがなければ、静寂よりも不活発の方が優れていると思うかもしれない。しかし、平静の眠気の中では何も得ることはないであろう。

4.掉挙(落ち着きのなさ)
もう一つの自己敗北的傾向。

心は絶えず形に魅せられ、興奮状態の中をさまよい続けている。散漫の真っただ中にいるのである。知覚はとても明確で鋭いのだが、蛾に囲まれたローソクの炎のように集中力の対象物は捉えにくいものになると言われている。この二つの状態への共通の対策は、心の持ち方にかかっている 注意深さによって、内的無感覚さへの堕落や外的魅惑への散漫のどちらをも防げるはずである。これら二つの傾向を警戒し、極端という危険性に対して常に注意力を保つことで、不活発や落ち着きの無さのどちらでもないものが成熟した禅定の実りを導いてくれるであろう。

5.行(集中による極端な力み)

落ち着きのドアを無理矢理こじ開ける必要などどこにもない。たった一つの狭い出口しかないとしたら、うろたえた群衆は乱暴になってしまう。リラックスによってのみ達成される目的を早まって無理強いする必要はなく、もしそうすれば、心は傷つき苦痛を受けることであろう。意識の背後にある堕落の圧力を除き去ろうとうろたえることは、抑圧という怪物がさらにまた怪物を生み出すことと同じくらいに無意味である。平静と忍耐は最も素早く、また最も価値のある結果をもたらすことであろう。リアリティと一番密接な中道と、完全なる自由の達成を表す調和点は、常に存在するはずである。落ち着きのドアを無理矢理こじ開ける必要などどこにもない。たった一つの狭い出回しかないとしたら、うろたえた群衆は乱暴になってしまう。リラックスによってのみ達成される目的を早まって無理強いする必要はなく、もしそうすれば、心は傷つき苦痛を受けることであろう。
意識の背後にある堕落の圧力を除き去ろうとうろたえることは、抑圧という怪物がさらにまた怪物を生み出すことと同じくらいに無意味である。平静と忍耐は最も素早く、また最も価値のある結果をもたらすことであろう。リアリティと一番密接な中道と、完全なる自由の達成を表す調和点は、常に存在するはずである。

これら五過失の名前を覚えていることはたやすい。しかし、修行中に起こった時、これらを認識することは難しい。清浄な知覚が混乱することで知性が死滅し、恐れが生ずる。これは修行をする上で、最も生じやすい障害であり、正しい禅定に対して巧みにごまかす言い訳をするのである。
 禅定中に起こった経験を説明することのできる友人と話をすることは大変良いことである。一度障害を捉え、明確にすることができると、その破壊力は大きな力となる。しかし、もしもそれを見分けることができなけば、知らないうちに恐ろしい雲が真っ暗に覆い、修行の進歩は全く見られることがないだろう。

― ラマミ・パム 『静寂と明晰 チベット仏教ゾクチェン修習次第』